作品の解説

●自身の作風のきっかけ


 大学でワンダーフォーゲル部に所属して、月に何度も山登りをしていた。その中で、そういう大自然での活動の体験や、自然の風景などをモチーフに出来るかということも実際に作品を制作したことがある。しかし何かしっくりとこないため、実験作として破棄した。それは身の丈にあっていないような感覚があったからだと思う。そういう山登りなどの活動は「非日常」のなかのレジャーとしての楽しさで、これからいろいろな作品を作っていく中で、今は興味があって楽しくとも今後も続けていくことが難しいと感じた。

 もっと身近で、リアリティのあるもの、自分にとっての日常とはなにか、身の丈にあった表現は何かという事で、そのような「自然」なものの対比として、人工的なものや工業製品、既製品、看板、文字などをモチーフとするようになった。きっかけとしてはそのような「自然と人工」の対比のなかで思いついたリアリティであったと思う。そのような作品を制作していく中で「自然と人工」のような単純な二項対立ではないもっとグラデーションのように世界があることを表現したくなり汚れなどの加工をするようになっていった。例えば山の中にある登山道や、「9合目」と書いてあるような看板、植樹された木々が「自然」なのかどうか。国道の古びた看板や街路樹、道端の石や風雨で汚れた壁が「人工」なものなのかどうか。そこに境界線はなく、自分が人工的だと思ったものの中にも、季節の移り変わりや食物連鎖のような生態系があり、同じように消費され循環していく死生観があることを感じた。そのような諸行無常というか、破滅の美学のような、いつかは色褪せ、枯れ、汚れてしまう物悲しさや哀愁のようなものに惹かれていき、作品もそのように変化していったと考えている。

 在学中影響を受けたのが、ポップアートの作家(ロバート・ラウシェンバーグ、アンディ・ウォーホル、オルデンバーグ、ロイ・リキテンスタイン、ロバート・インディアナ)や、大竹伸朗さん、林田嶺一さんなどになります。もちろん大学の先輩や教授の影響もあります。


●カラフルであることと色褪せること


 作品の中でカラフルなストライプ模様や、原色の組み合わせを使用することが多い。絵の具で使用する場合は下地の色が見えるくらいに表面を研磨している。また近作では風雨にさらされたような効果を狙ったウェザリングやグレージングの処理をしている。プラスチック製品などを組み合わせたインスタレーションもあるが、そちらはそのまま加工もせずに展示しているが、色鮮やかな製品の裏にある儚さや危うさ、懐疑的な視点を意識している。カラフルな原色が色褪せていく(ように偽造する)ことで表現される、この人工的な身の回りの世界も、いつかは色褪せ消費されて無くなってしまうという感覚があるからかもしれない。最近は、カラフルな既製品や、工業製品、使い古された画像、消費されるポップアート、自身の幼少時代の体験などを基本として構成した、ノスタルジー(郷愁、懐古、追憶)な視点がより強くなってきている気がする。

 たとえばポップアートの作品を観た時に感じるすでに一周消費が回った後であるような感覚がある。アンディ・ウォーホルのTシャツがUNIQLOで簡単に購入できてしまうように、消費社会やイメージの等価観のメタファーが、消費構造に飲まれてリサイクルされている入れ子構造、トートロジーに惹かれてしまう。そのあがなえなさは、草花が枯れていく秋の自然の風景のようにも感じてしまう。おそらくそのあたりのあきらめに近い感覚(これをニヒリズムといっていいのか)があって、そこにあがなおうとして制作をしている感覚がある。


●ひねくれた感覚を素直に出すこと


ニセモノのニセモノを作るという入れ子のような構造のなかで、ホンモノをいつか作り出そうという気概が、作品制作のモチベーションの根幹にある。

 消費されるイメージや文化、時間経過によって色褪せていく過去に対しての愛着、繋ぎとめようとする感覚、あるいはそれを手作業で復元(再現)することは制作時に意識している。同時にいかにニセモノを作るかということは重要なテーマである。例えばダメージ加工したジーンズや、DIYでのオールド加工、プラモデルのウェザリングのような、わざと古く見えるようにすることも需要な要素になる。それは前述のようなノスタルジーも消費構造のテクスチャーの一つだと思っているからだ。ラーメン共和国や温泉リゾートに昭和ノスタルジーの街並みが再現されているのは、実際にそのような昭和の世代でなくとも懐かしいと思わせる演出の一部であり、そのフィクションにどこか冷めた視点で観察をしている。それは「ノスタルジーを再現したいという自分」と、「それはニセモノなのだと思っている自分」の二重性なのだと思う。

  またネガティブな発想やコンプレックスから今の仕事になっていった感覚がある。(もちろんそれがすべてではありませんが。)

 カラフルな色を使用するのは、もともと絵の具の混色が苦手だったからでもある。イメージの引用や、既製品を使用するのは、価値観や生き方が多様化し複雑になった現代で、ほかの天才たちの作品の後追いとしてオリジナリティのある新しいイメージを自分で創造することをあきらめたからかもしれない。特に最近ではそのような斜に構えた、こじらせてしまったひねくれた感覚を、作品のなかで素直に表現しており、下手にカッコつけようとしなくなった。流行りの新しいものを探すのではなく、今自分のなかにある引き出しの中身の組み合わせを変えて、ある種の開き直りで表現できればと思っている。

 

Takuji Nishita

美術家 西田卓司のホームページ。

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